ガラテヤ6章

6:1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

 五章最後では、御霊によって結ばれる実について教えました。そして、肉にはよらず、御霊によって歩むことを教えました。その上で、誰かが過ちに陥った場合、御霊の人である者は、どのように対処すべきかを教えました。御霊によって正しく歩むことは、悪に対してこれを裁く者ではありません。また、肉的な人が自分を誇るようなことをしている場合、それに対抗することでもありません。むしろ御霊の人は、柔和な心でこれを正してあげるのです。このことを言うのは、肉による人たちが、自分を誇ろうとしていたことによります。御霊の人は、それが肉の働きであることが分かるのです。そのような行為に対して、人は、裁いたり、時として対抗したりするものです。しかし、それは正しいことではありません。

 パウロは、肉に従った間違った行動に対して、初めに、彼らを正してあげることを勧めたのです。

 また、その人自身が誘惑に陥らないように気を付けなければならないことを示し、健全な歩みができることを願ったのです。たとい、肉によって歩んだ人があったとしても、柔和な心で正してあげることが必要です。

6:2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

 その上で互いの重荷を負い合うというもっと高度な歩みに進むように勧めたのです。それがキリストの律法を全うすることです。

 肉は、互いに挑み合ったり、嫉み合ったりします。しかし、御霊による人は、そうではありません。互いの重荷を負い合うのです。律法守ることを唱えた人たちは、律法を守ると言っていましたが、それは、肉による働きでした。彼らは、律法を守るという誇りを持っていました。肉による誇りなのです。それは、真の意味で律法を守ることではありませんでした。

 互いの重荷を負い合うことは、キリストの律法を全うすることです。人は、信仰によって義とされ、御霊をいただきますが、その御霊の人は、律法を全うする者となります。それは、互いの重荷を負い合うということを通して実現するのです。

 重荷を負うということは、御言葉を教え合うこと、経済的な援助、生活の必要にための面倒、慰め励まし等いろいろあります。互いの必要にために助けを与えることができます。互いに挑み合ったり、嫉み(そねみ)合ったりすることは、肉の働きです。

6:3 だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。

 そして、自分を誇ることを戒めています。自分を立派なように思うことは、自分を欺いていることであると。自分自身を省みたならば、自分が立派でないことは、明らかです。それなのに、自分を立派なもののように考えることは、自分を欺いているのです。

6:4 それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。

 自分自身の行いを良く調べるなら、誇れると思ったことも、自分がそう考えただけで、誇れるようなことではないことが明らかになります。

 例えば、自分は、律法を守っていると言っても、神の前に完全な者であると言うことはできません。律法を守ることを唱えた人たちは、そのように誇ったでしょう。しかし、彼らは完全な者でしょうか。

6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。

 自分自身の重荷とありますが、この重荷は、罪ではありません。負うべきと記されていますから、負わなければならないものであって、罪は負う必要がありません。負うべき重荷は、二節の「互いの重荷」を負い合うことを受けての言葉です。それぞれが重荷を持っているのです。それは、負うべきとありますので、主から負うべきものとして与えられたものです。それは、例えば、肉によって神の御心を完全に行うことができなことかもしれません。あるいは、貧しさであるかもしれません。ある人にとっては、病気でしょう。ある人にとっては、迫害の苦しみです。そのような重荷は、主からいただくのです。それを避けることはできません。

 そのような重荷を負っているのですから、互いの重荷を負い合うのです。それこそキリストの律法を全うするのです。誇ることは、愚かなことなのです。

6:6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。

 これは、教えを受ける人が、教えをなす人の持っている良いものを全て分け合うことを表しています。「良いもの」は、本質的な善のことです。物質的なものを指しているわけではありません。

 この語は、十節の「善」と同じ語です。

6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

 ここからは、肉に従うことに対して、警告が示されています。

 教えられたところに従って、歩むならば、幸いです。それは、正しい教えの内に生きることです。教える人と教えられる人のことが取り上げられているのは、そのためです。ここに記されていることは、何の脈絡のない言葉ではありません。

 そして、御言葉に従わないことに対する警告がここに記されているのです。前の節では、教えられたことの全てを分け合うことが勧められていましたが、ここでは、聞き従わないことに対して、神はそれをご覧になっておられる方であり、侮られるような方ではないことが示されています。しかも、思い違いをしてはいけませんと強い調子で書かれています。人のなしたことに対して必ず報いがあることを示しました。

6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 自分の肉のために蒔く人は、滅びを刈り取ります。肉から滅びを刈り取るというのは、肉の行いによって、滅びを刈り取るということです。これは、クリスチャンが救いの立場を失うことを意味していません。クリスチャンが神の前に死んだ者となり、実を結ばない状態を表しています。

 御霊のために蒔く人は、御霊による行いによって、永遠のいのちを刈り取ります。永遠のいのちは、この地でも味わうことができます。主と共に歩むことによって、主と一つになることが永遠のいのちです。また、永遠の報いをもたらします。

6:9 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

 その刈り取りは、必ず来ます。ですから、善を行うことに飽いてはいけないのです。

6:10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。

 ですから、機会のあるたびに善を行うことは、幸いです。全ての人に対して善を行うことができます。その中でも。信仰の家族に善を行うように勧められています。そうするなら、大きな報いを受けます。

6:11 ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。

 パウロは、目が悪いのにわざわざ自分の手で手紙を書きました。それは、この手紙がパウロの自筆であることを示すためです。また、この教えに関する間違いを正すことの重要性を示すためです。

6:12 肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。

 初めに割礼を強制する人について、彼らの本質を示しました。

 彼らが割礼を強制するのは、彼らの律法に対する熱心からではありません。ただ外見的に、割礼を受けている者であることを示そうとしているだけなのです。そうするのは、それによって迫害を回避できるからです。彼らは、外見的な行為によって、律法を守っている者であるかのように振舞っているだけなのです。

6:13 割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。

 彼らが割礼を受けさせる目的は、律法に忠実に従うという思いからではありません。彼ら自身が律法を守ってないからです。彼らがそうするのは、迫害を避けたいという動機からですが、また、彼らの主張に従って割礼を受ける人たちがいることによって自分たちの主張の正しさを示し、また、自分に従う人たちが増えることによって、彼らに対して指導的立場に与ることができるからです。それが彼らの誇りでした。「彼らは、私の教えに従いました。彼らは、わたしに従っています。」と言って誇ることができるでしょう。彼らに従う人々の存在は、自分の誇りになるのです。

6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

 しかし、割礼を強制し、それを誇りとするそのような誇りは、肉による誇りであるのです。しかし、私たちには、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならないのです。私自身は、既に世に対して死んだ者であるのです。この世の事柄は、全て捨て去ったのです。

6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

 ガラテヤ集会の大きな問題は、律法の行いをしなければ義とされないという教えが入ってきたことです。「割礼」は、そのことを象徴しています。各種の日と月を守ってることも記述されていますので、割礼だけではありません。私たちの歩みが義とされることに関して、割礼を受けているか否かは、大事なことではないのです。大事なのは、その人が新しく生まれ、御霊によって歩むかどうかです。すなわち、自分の肉ではなく、御霊によって歩むことです。キリストの愛に応え、信仰によって御霊によって歩むことです。義とされるのは、信仰によるのです。

6:16 この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。

 この基準とは、「十字架以外に誇りとするものがあってはならない。」ということで、その基準に従って進むとは、自分が死んだ者であり、新しく生まれた者としてこの世のものに関わりない者として生きるということです。

 そのような人こそ、神のイスラエルであり、神の民なのです。律法の規定を守り、割礼を誇る人々が神の民イエラエルではないのです。

 この基準に従って進む人々の上に完全さと主が契約を忠誠をもって果たされることすなわち契約による祝福があるようにと祈りました。

・「平安」→神の御心を行うことで与えられる完全さ。

・「あわれみ」→「契約に対する忠誠」

6:17 これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。

 「焼印」は、決して否定できない証拠です。パウロは、これがキリストの意思であることをこの言葉によって明確に示しました。信仰による義は、キリストが定めたことであることを明確にしたのです。これに逆らういかなる教えも、キリストから離れたものであり、キリストに逆らうものであることを明確にしました。

6:18 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

 キリストの恵みがあるように祈りました。この恵みは、キリストの教えのうちに歩むことでもたらされる祝福です。信仰により、御霊によって歩むことで実現します。

 「あなたがたの霊と共に」とあるように祈っています。霊は、神様の御言葉を受けて信じる部分です。たましいは、その信じたところに従って生きる部分です。役割が違うのです。霊と共にということは、教えに関係しています。手紙の内容からも、正しい教えのためにこの手紙は、記されています。ですから、この恵みは、正しい教えを信じる恵みです。そして、その中を歩む恵みです。